「ヨコスカ一日満喫」
全てはこのパンフレットから始まった・・・
8月4日に一人で横浜に出かけて、京急の切符売り場の脇にこのパンフレットが置いてあって、何気なく手にとって持って帰った。
上に目玉焼きが載った特大バーガー。具だくさんのカレー。やたら美味しそうだ。
バーガーはネイビーバーガー、カレーは海軍カレーと名付けられていて、横須賀市長から認定をもらった店が何軒もあるらしい。
店ごとに売りが違うようだが、どれもやたら美味しそうで、パンフレットに振り回されるのも馬鹿だと思いつつ、
「ねえ、これ、なんかやたら美味しそうなんだけどさ」
連れ合いのTにパンフレットを見せてみた。
本人が後から言うところによると、何馬鹿なものを持って帰ってきて、くらいに思って眺めたそうだ。ところが彼も、パンフレットに目が釘付けになってしまった。
「うまそうだな~俺この店がいいなTsunami」
「え~、そう? 私はHoneybeeがいいと思った」
「だってTsunamiはこれだぜ」
パンフレットの表紙の、レタス、トマト、牛肉のパテ、ベーコンの長い一切れをべろんと挟んだバンズの上に更につやつや光る目玉焼きが載ったバーガーの写真を見せて彼が言う。
「そうか。表紙に載ってるっていうことは一番美味しいのか」
「人気No.1だってよ」
“不滅の人気No.1”バーガーだと、ゴシックで書いてある。
「そうか。人気No.1か~。でも私、店の雰囲気がいいのもいいな~。『開店当時の雰囲気を今に伝える店内』って私は惹かれるな~。あ、でもウッドアイランドのカレーもいいな~」
「昼、ネイビーバーガー食って、夜、カレー食って帰ればいいよ」
「あっ、いいね! 間はどっか喫茶店入って本でも読んでさ。いい喫茶店あるかな。ネット見てみるね」
パソコンを立ち上げる私。
「横須賀 カフェ」で検索すると、「横須賀でお勧めのカフェ20店」というサイトがヒットする。
「わ~横須賀ってカフェ沢山あるよ! お勧めのカフェだけで20店もあるんだって。あ、ここ良さそう昭和レトロな雰囲気がそのままにだって」
「いいな昭和レトロ」
という具合で、とんとんと話が運び、明日にでも行こうと話がまとまり始めたが、
「あっ、明日土曜日だ~。混むね」
パンフレットに載っている店をネットで順繰りに見ていく。Tsunamiは平日でもお昼は行列ができると書いてある。Tは並ぶのが超嫌いである。気が短い。一瞬でも並ぶのがわかるとすぐ別の店を探すタチ。たとえネイビーバーガーと言えども並ばないだろう。まして土日となれば行列も長くなるだろうから絶対並ばない。
「そうか土日か~。じゃあ月曜まで待とう」
ということで7日月曜に、横須賀に行くことに決まった。
*
ところが台風が近付いていた。
6日の予報だと、7日は曇りのち雨だという。新聞の天気予報の午後の欄には、一杯に開いた傘の柄が描いてある。
「午後雨だよ。駄目だ」
私が言うと、
「逸れるよ逸れる」
Tが言う。
そして7日の朝。
6時頃、起きると快晴で日ががんがん照っている。でも朝刊の天気予報だと横浜は朝から曇り。午後は最初すぼんだ傘の絵、夕方からは一杯に開いた傘の絵だ。「激しく降る所も」とある。静岡は朝九時からもう傘が開いている。うちは中間だから両方を見比べる。
「変だねえ横浜午前中曇りだって描いてあるけど晴れてる。静岡なんて雨のはずだよ」
パソコンを立ち上げる。いちいちパソコンを立ち上げるのは、二人ともスマホを持っていないからだ。Tはネットの天気予報には関心がなく、新聞の、それも朝刊の予報だけを信じているから、私だけがネットの天気予報を見る。
台風は今九州を北上中、関東は午前中は晴れるが、午後に大雨だそうだ。
今日出かけるのは、無理だろう。
「わからんぞー。逸れるかもしれんぞー」
Tは言うが、私はもう今日は、横須賀行きはないものと考えている。
新聞は午前中曇り。ネットでは午前中晴れ。
今晴れているから、ネットの方が当たっている。
出かけるならばたばたするから布団は干さないが、出かけないとなると、今かんかん照っているこの日に、布団を当てたい。
うちの寝室は東を向いていて南側にも布団を干す場所がないから、朝、東から日ががんがん照るこの時期に絶対布団を干したいのだ。
せっせと干していく。
「曇るからやめときなよ、朝刊に曇りって書いてある」
Tは言うが、
「午前中は晴れるってネットの予報」
「ネットは当たらないよ。新聞の方が当たるんだよ。夕刊はあんまり当たらないけど朝刊が当たるんだよ。朝刊に曇りって書いてあるから曇るよ。やめな干すの」
しつこくTが言うが、私もしつこく布団を干す。干し終わってから気功をする。
気功を終えて、朝ご飯を食べ始めると、部屋の中が急に暗くなった。見ると空が曇っている。
「だから言ったろ、朝刊が当たるって」
「ほんとだ。入れてくるよ布団。ざーって来たら大変だからね。静岡雨の絵だもんね」
あたあたと二階に上がって取りこむ。
ところが、取りこんで三十分も立たないうちにまた、薄日が射してきた。
「あれえ~こんなんだったら干しておけば良かった~損した~。ネットの予報が当たったよ」
かと言って、もう一度干す気力もない。
「Tが曇る曇るって言うからさ。それもあって取りこんだんだよ、ネットだけ見てたらとりこまなかった」
ぶつくさと私が言う。
「そうか~ネットが当たったか~。普通は朝刊の方が当たるんだけどな」
しつこくTが言う。
*
朝刊にも、ネットにも、午後は雨だと書いてあるが、12時を過ぎても雨は降ってこない。
郵便局の人が来て大きな段ボールが届く。
「なんか晴れてますね-。台風来るっていう話だけど」
「午後から降る、っていう話みたいですね」
若いのに礼儀正しい配達員さんが言う。
今季最期ということでまとめて10キロ甘夏を買った。それが着いてしまった。
そのまま冷蔵庫に入れると水分が飛んでスカスカになるから、一個一個ラップで包んでセロテープで留めて、四個ずつビニール袋に入れて封をしてから冷蔵庫に入れる。この作業がやたら手間がかかる。横須賀どころではない。でも雨が降らない。
Tは外の掃除をする係で、外掃除をする時の服に着替えて雑巾を持って家の中を歩いているから、
「何か降らないじゃんね雨」
と言うと
「逸れてんじゃねえか~?台風」
「ネット見てみようか」
甘夏の作業を中断してネットの予報を見る。朝刊で曇りだったのが晴れていて、ネットの予報が当たったから、Tも反対しない。
若い女の子の予報士さんのサイトを開く。今の状況を動画で見せながら解説している。九州の上を台風がぐるぐる渦巻いていて東に進んでいる。でも、進み方が遅い。今日の午後は関東には来ない。台風の渦の一番外側の雲が切れ切れに飛んできてそれがちょうどうちの上の辺りに時々かかるくらいだ。ただし午後6時を過ぎると雲に覆われる。午後8時頃にはかなり降りそうだ。一方で三浦半島には午後一杯雲がかからない。つまり横須賀に遊びに行けば横須賀では降られない。こんな天気だから店は空いているだろう。Tsunamiにも並ばないで入れるだろう。帰りには降られるかもしれないが、結構狙い目のタイミングかもしれない。と、掃除を終えて家の中に戻ってきたTに言う。
二人ともお腹が空いてきた。ご飯をつくっていいのかどうか。横須賀に行くならもちろんつくらない。とりあえずカシューナッツなど食べながらどうするか考える。時間は一時を回っている。雨は降らない。風も、ない。どう考えても、今ネットで見た予報より更に、台風は遅れている。
「あのバスがあるじゃないか、あれで行こう」
Tが提案する。
うちから歩いて一分くらいのところにバス停ができたのは三年くらい前のことだ。新しい路線ができたのだが、そのバスが、一日に往復三本しかない。そのうちの貴重な一台が、1時42分に、近くのバス停に止まるのだ。
「すごいねー!よく思い出したね!そうしよっか」
「今から着替えて、戸締まりしても十分時間あるぞ」
行くことに決まる。
いそいそと準備して、
「だから言ったろ~?逸れるって」
「逸れてないよ、遅れてるんだよ」
「帰りは降られるか」
「大変な思いするかもよ。行きたがったのはTだとか私だとか二人で相手のせいにしてわあわあ言うかも」
「だから俺は行かない方がいいと思ったんだよ、とかな」
言い言いしながら二人で玄関を出ると、
「あれ」
玄関前のアプローチのコンクリートに、ぽつぽつぽつと、小さな水玉模様ができては消え、出来ては消えしている。
雨だ。
*
「雨だ」
「なんだよ、あと30分早く降ってりゃ行こうと思わなかったよ」
「止めたよね」
「どうする」
「どうしようか」
「Jはどうしたい?」
「Tは?」
「Jが行きたいかどうかだなあ」
急に穏やかな雰囲気になってTが言う。
「そりゃ行きたいけどさ。でも台風が来るかどうかだよ」
「それでも行きたいかどうか」
私が静かに考える時間を与えるような、穏やかな雰囲気でTが言う。
私は、自分がどこかに行きたいのか行きたくないのか、わからなくなる癖がある、らしい。それはTから指摘されて初めて気が付いた癖だ。レストランとか、映画とか、旅行とか、行っても行かなくてもどっちでもいいと自分では思っていて、私が気乗りしない顔をしているので予定を取りやめると後でひどく落ち込んでがっかりする、らしい。そういう時はTが無理に行こうと言って連れて行くと結局喜ぶ、らしい、し、自分でもそんな気はする。でも自分で自分のことはよくわからない。今回は行きたいと思ったけれど、台風が来るのではどうか。予報で来る来ると言っていても、雨が降らない限りは、来ないような気がしていた。でも降り始めるのを見ると、今度は、来るような気がしてしまう。台風が来るのがわかっていて、雨が降り始めているのにわざわざ外出するのはどんなものか。迷っていると、
「Jが、メシつくらないですむのもいいと思ったんだよね」
Tが言う。
「えっ、メシ?」
Tの使った語彙をそのまま再使用して私が言う。普段は私はメシなんて言葉は使わない。でもこういう風に、Tの使った語彙をそのまま再使用する時は使う。Tの語彙をそのまま再使用して返答するのも私の癖、らしい。
「メシつくらないで済むっていうのは、それは今は考えなくていいんだよ、今そんなこと考えて台風で大変な目にあったら大変なんだから今考えなくちゃならないのは台風のことだよ。メシつくるのは全然どうってことないよ」
八年前、Tがくも膜下出血で倒れた。奇跡的に後遺症もなく助かったが、以来、食べ物には異常なくらい気をつけるようになった。毎食、バランスを考えて野菜の豊富なメニューにするから気が抜けない。そんな私に少し楽をさせようという気持ちが、Tにはあったようだ。が、私は台風のことで頭が一杯だ。雨、どうだろう。コンクリートの上を見ていると確かにぽつぽつ水玉模様が現れては消えしているが、水玉も小さいし、水玉の現れる頻度もそんなに激しくない。バス停までだったら、傘も射さなくていいだろう。少し考えた後で、
「じゃあ、今日は行こうか」
二人で門を出る。出ながら、
「メシをつくらないで済むっていうのはね、考えなくていいからねこういう時はね、大事なのは台風で大変な目に遭うかどうかっていうことだからね」
大声で力説していると、道を挟んで向かいの家のおじさんがフェンスの向こうで何か作業している。フェンスはそれこそ昭和レトロな青い網の金網だから、すぐ近くに見える。目は合わない。
「On t’entend」
Tが小声で私に言う。聞こえるぞ、というのである。二人ともフランス語が専門だからこういう時、フランス語は便利だ。日本語学校で知り合って結婚したフランス人夫婦が、「アソコニ、ヘンナヒトガイマス」とか、人中で、聞かれたくないことを話す時に日本語が便利だと言っていたがちょうどその逆だ。
雨の中を傘を射さずに歩いていると、急に雨脚が強くなってきた。
「あれあれ、射した方がいいかな傘」
言いながら道路を渡るとすぐにバス停だ。バスがすぐ来るなら傘は射さないでそのまま乗るが、来る方角を見ても、バスの姿はない。Tが傘を開く。私も開こうとするが、傘をまとめる紐のホックがしっかり留めてあって、取れない。雨はどんどん強くなってざーざー降りになった、バスは来ない、遠くに小さくも見えない、慌てれば慌てるほどホックは外れない。
「どうしようか」
ホックの外れない傘から顔を上げると
「無理だなこれは」
「土砂降りだ、びしょ濡れになっちゃう」
「出かける天気じゃないな」
「帰ろうか」
「帰ろう」
また道路を渡る。ホックが外れない。
「これに入っていけばいいよ」
Tの傘の中に入ってわさわさ歩く。
「ひどいもんだね。」
「これはひどい」
「こんなタイミングで降るなんてね」
わあわあ言いながら早足で戻っていくと向かいの家のおじさんが今度はガレージのところで何か作業している。
「こんにちは」
挨拶すると
「あ、こんにちは」
驚いたように返す。
門を入って玄関を開け荷物を置き、閉めたばかりの雨戸を二人でがらがら開けると、
「あれ」
雨が止んでいる。
並んで外を見る。止んでいる。
*
「止んだ」
「なんだよ止んでんじゃねえか」
「さっきあんなに降ったのにさ」
「明るくなってきてんじゃねえか」
西の空が明るくなってきている。
本当に一時的に、雲の切れ端が飛んできただけだったようだ。
「どうする? 次のバスで行く?」
「次のバス」は、近くのバス停からは出ない。6分ほど歩いたバス停に行かなければならないが、たぶん2時4分というバスがあるはずだ。今すぐ出れば、間に合う。
「でも、どうする? ご飯遅くなっちゃうね。これから横須賀行って、何時に食べられるかな」
「2時4分だろ。それで、東海道線が24分発かな」
大磯は、電車の本数が少ない。
「そんで、横須賀まで一時間」
「横須賀中央までバス」
「着いて、店まで歩いて」
「そんで、待つでしょ」
「4時、かな」
それは体に悪そうだ。もう、お腹がかなり空いている。カシューナッツで腹ごしらえしたけれど、それでももう、空いている。
「体に悪いかなあ」
「つくんの大変じゃないか」
「大丈夫だよ、今日は行くのか行かないのかよくわかんなかったから生のもの解凍してない。ランチョンミートの缶詰使うから楽だよ」
「じゃあやめるか」
「うんやめよう」
やめることになる。
私は着替えて、涼しい格好になって、台所に入る。
ランチョンミートも普段は食べない。非常食に備蓄しておいたのが古くなった時だけ、食べる。ちょっと非日常だから、食べ損なったハンバーガーの代わりにはちょうどいい。小松菜と一緒に炒めて、味噌汁と副菜を適当につくってご飯にする。
「ビール飲もうか」
「飲もう飲もう」
ビールと言っても、ノンアルコールビールである。
料理で少し疲れて私はぐったり座っていて、Tが缶ビールとコップ、コースターを持ってきてくれた。プシューと開けて、飲む。美味しい。雨は止んでいる。
「残念だったね」
「あの時だけだったじゃんね」
「乗っちゃえば良かったね、42分に」
「バス見えてたら絶対乗った」
「私も私も。見えてなかったから」
「2時4分で行けば良かったか」
「いやー、ご飯4時でしょ? 無理だよ。大船辺りでお腹ぺこぺこになって、『横須賀は夜だけにして昼はここで食べよう』とかなったよ」
「それは避けたいな」
雨は止んでいる。
「なんでこんなに行きたくなっちゃったんだろうねえ横須賀」
「ハンバーガーも、カレーも、普段食べないから噴出したんだろう」
バランスが悪くなるからというのでどちらも食べない。これも八年前、Tが倒れてからだ。それが今回は私もTも、体に悪いということは全く頭から抜けた。
「体に悪いとか考え出したら行かなくなるから、考えなくしてるんだろう」
Tが笑う。
そうだね、考えたら、行かなくなっちゃうね。シャットアウトしてるんだね。
立ち上がって、庭を見る。雨は降っていない。
雨の降らない庭を見ている私の後ろで、
「よっぽど行きたかったんだなあ」
嘆息するように、Tが言った。
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