隣町で用事を足して家に帰り、玄関の扉を開けるなり、
「マツムシいるよ!」
とTが言う。
「マツムシかどうかわかんないんだけどさ。違うかもしれないけどたぶんマツムシだと思う。隣の私道にいてさ、拾うかどうするか迷ったけどJが喜ぶと思って」
病気の垣根に竹酢液を撒いているとき見つけたんだと言う。
「有り難う! 喜ぶ喜ぶ。」
「そうかーじゃあとっておいて良かった」
「良かったよーとっといてくれて。マツムシって初めて見るよ私」
「俺も初めてだよ。ほら」
お米の軽量カップの中に入れてラップをかけたのを持ってきてくれたのを見ると、鮮やかな緑色をした綺麗な虫だ。
「何か入れるものある? これだと息できないからさ」
「あるある」
荷物の整理もしないで、押入の奥から小さい段ボールの畳んであったのを取り出して組み立て、別の物入れからその段ボールに合う大きさにして結んだゴム紐も持ってくる。
「全部あるんだねー」
感心したようにTが言うので、
「あるある。いつ虫が来てもいいようにね」
得意気に答える。
私はたぶん、時々虫を飼うのが趣味だ。有機野菜と一緒に入ってきた青虫、冬が近くなって家に入りたそうにして窓近でヨタヨタしているカマキリ、秋の終わりに神社の階段の日だまりで縮こまっていたトゲナナフシなど、折に触れて飼ってきた。虫は突然やってくるから、いつ来てもいいように、虫のおうちに良さそうな小さな段ボールが手に入ったら大事にとってある。
「放してやってもいいけどさ。キュウリとかやれば食べるよ」
「あるよキュウリ沢山」
「移す時Jじゃなくて俺がやった方がいいよ。こいつすごい素早いからJがやると逃げる」
折りたたんだ新聞紙を段ボールの下に敷き、水で濡らす。
「濡らさなくてもいいんじゃない? キュウリあれば」
「いや、だめだめ。湿度がないとね、干からびちゃうんだ」
青虫を干からびさせてしまった苦い失敗がある。
キュウリを斜めに二枚ほど切って、新聞の上に置く。ラップを大きく引き出して段ボールの上にかけてゴム紐で留めて、爪楊枝で空気が出入りする穴をプチプチ開けて出来上がり。Tが虫をコップから手に移して手のひらの中に包んで、ちょっと上げたラップと段ボールの隙間にひょいと入れる。忙しげに動き始める虫を眺めながら、
「きれいだねー」
「オスだと思うから鳴くよ」
うっとりと眺め入る。
コオロギと違って体の後ろ足に近い方が膨らんでいなくて整った紡錘形で、背中に茶色でバツを描いたような模様がある。こんな焼き印のついたお饅頭をどこかで見たことがある。幾何学模様みたいでちょっとお洒落。
「これ、初めて見るよー」
「俺も俺も」
「珍しいよね」
「珍しい珍しい」
「写真撮る。FBに載せるよ」
動き回って撮りにくいのだが、一瞬止まる瞬間を逃さずに何枚もカシャカシャ撮る。
*
虫は段ボールの中をぐるぐるぐるぐる、左回りに動き続けている。それを見ながらTが、
「こいつ、動きがゴキブリに似てるな」
ぼそっと言う。
確かに、ゴキブリそっくりだ。
体を揺らさず、さささささ、と、非常な速さで前に進む。
「茶色かったらゴキブリだな。でも汚いもの食わないな」
「食べるもの全然違うでしょ。ゴキブリは森の中とかにも住んでるけど腐った葉っぱとか食べるんだって」
「汚えな」
「これは草だけでしょ。それにゴキブリは鳴かないし」
「全然違うな」
さささささ、と移動しているのを見ると微妙な気持ちになるが、可愛い。
「どんな声で鳴くんだろう。聞いたことないなマツムシって」
「俺もない」
「検索してみようかどんな声で鳴くのか」
「しようしよう」
いそいそとパソコンに向かい、「マツムシ」で検索。
すると、コオロギそっくりの、茶色い虫の写真が何枚も出てきた。
「あれえ。マツムシじゃない」
「違ったか。じゃあ、カネタタキか」
「あ、そうだよ。チンチンチンチンって鳴いてるよ最近。それだよ」
「カネタタキ」で検索。
これもまた、コオロギそっくりの、茶色い虫の写真が出てきた。
「あれーまた違う。何だろう」
見ると画面の右側に他の虫の画像が何枚もあって、その中に紡錘形の、緑色の虫の写真がある。「アオマツムシ」と書いてある。
「これじゃない?」
「これだ。アオマツムシ」
「茶色いバッテンないけど」
「オスだけあったりするんだよ」
写真をクリックすると画像がわわわっと出てきて、
「あっ、あった!」
背中に茶色いバッテンがある緑色の虫の写真があった。
「アオマツムシかあ。マツムシじゃあなかったけど、近かったんだね! どんな声で鳴くんだろう」
グーグルで、「アオマツムシ」で検索するとYouTubeのサイトがヒットしたからそれを再生する。すると・・・
リーリーリーリー。
毎晩、聞いている声である。
この声しか聞こえない、と言っていいくらい、この声ばかりが聞こえる。
「これかあ」
「なんだこれかあ。一番banal(平凡)なやつだな」
「知らなかっただけだー」
「珍しいと思ったんだけどな」
「見たことなかったよ」
「俺も」
がっかりするが、
「アオマツムシ引いて。ウィキペディアで」
Tに言われて、「Wiki アオマツムシ」で検索。説明を読んでいくと・・・
「食葉性害虫の多く付く樹木に登って生活し始め、他の小昆虫や葉を食べて成長・・・」
「あれえ。木の上にいるんだ」
そこではっと気が付く。
今年はやたらと虫の声が大きく聞こえて、綺麗な声だと最初は喜んでいたのだけれど、草むらもないのにどこにいるんだろう、と不思議に思い、夜、庭に出て、声のする方に近付いていってみたのだった。すると垣根の中から聞こえていて、もしかして、垣根の葉を食べる虫なのではないかと、心配になっていたのだった。
「これ、もしかして垣根食べてんじゃない?」
「害虫か」
去年、垣根が病気になってからというもの、健康そうな新芽が出てもどんどん虫に食べられてしまう。虫食いの傷からまた菌が入って、そこから病気になる。という連鎖で困っているのだった。
どうやら珍しい虫ではなく、その上、害虫らしいとわかってしまった。
しかも、Wikipediaの先を読むと・・・「形が平たく、素早い動きをするため『アオゴキブリ』と呼ばれることがある。」
「アオゴキブリだって」
「なんだアオゴキブリか。どおりで似てると思ったんだ」
パソコンを閉じて、段ボールの中を見ると、さっきはせわしなく動き回っていた虫が、二本の触覚をピンと揃えてじっとしている。その姿は可愛い。が、なんだか、飼う気が失せてしまった。毎日、世話が結構大変だ。それを続ける情熱が消えてしまった。
「本当は駆除するようなもんだな」
「でも鳴くでしょ。可愛いし」
「鳴くし緑だし得だな。ゴキブリだったら潰されてる」
「どうしようか」
「放す?」
「放すと垣根食べるよ。神社に持っていこうか」
「明日でいいな」
今日はもう夜だ。夜の神社はちょっと怖い。
「今夜鳴くの聞いて、明日の朝放そう」
「家の中で聞こえると綺麗だねきっと、外から聞こえてくるより」
まだ、一声も鳴かない。
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