2019年6月18日火曜日

【初夏の東海道線の中で】(久しぶりの「大磯だより」です)

【初夏の東海道線の中で】(久しぶりの「大磯だより」です)

     できればボックス席の、進行方向を向いた側に並んで座りたいと、扉が開くなり二人で急いで車内に入った。
 横浜からは四十分はたっぷり乗る、座れて良かった、とほっと一息つくと、向かい側にも親子連れが乗って来て座った。
 窓際に座った女の子は、三十歳くらいのようだけれど、髪を顔の両側で二つに結び、笑顔を浮かべたまま、窓の外の景色を見ている。お母さんらしき女性は六〇歳くらいだろうか、端正な顔立ちで、薄いモーヴ色の、肌の色とあまり変わらない控えめな口紅が上品で瀟洒な印象だ。成人した娘と二人連れらしき女性によくあるはしゃいだ感じはなく、女の子の方を、見守るようにじっと見ている。
 大船を過ぎると、東海道線の線路はぐっと西にカーブして、電車は相模湾沿いに、東から西へ、真っ直ぐ走る。初夏の、正午を過ぎた日差しが窓から入ってきて、窓際に座っていたTが、読んでいた本から顔を上げて、
「まぶしいな」
 目をしばたたかせて言った。
 顔を上げると、前の車両の中程、私たちが座っているのとは通路を挟んで反対側に、空席がある。「移る?」と私が言うと、「いいや、ここで。」と、Tはまた本を読み始めようとした。すると私の前に座っていた女性が、
「日よけ、下げましょうか」
 と言って立ち上がり、窓枠の上の縁にあるつまみに手を伸ばした。
「あ、有り難うございます。でもそれ、動かないんですよ」
「それ、日よけじゃないみたいなんですよ、私も今まで何度も下げようとしたことあるんですけど」
「あら、本当だ下がらない」
 女性はつまみを持って下げようとしてくれたけれど、やはり動かない。
 昔の東海道線は、こういうつまみを下げると、グレーの日よけが降りた。日よけについているフックを差し入れる穴が窓枠にいくつも開いていて、降ろし具合を何段階かで調節できるようになっていた。でも最近の車両には、日よけは付いていない。つまみはただのデザインであるらしかった。
 女性はまた席に座った。アフタヌーンティーのエコバッグを持っていて、それを膝の上に抱えるようにして、しばらくの間、女の子と一緒に窓の外を眺めていたけれどやがて目を閉じて、眠ってしまったようだった。Tは変わらず本を読み続けていて、女の子は窓の外を眺め続けている。Tよりもさらに日差しが真っ直ぐ顔に当たる角度になっていて、顔一杯に日を浴びてまぶしそうに目を細めながらも、ずっと笑顔でいる。
お母さんらしい女性は目を閉じて眠っている様子だったが、途中で電車が揺れて、膝の上のエコバッグも揺れ、滑らかな素材なので滑って、膝から落ちそうになった。すると横に座っていた女の子は窓から視線を逸らし、母親の膝をふっと見た。そして手を伸ばして、落ちないように手を添えた。
     窓の外を見ている間ずっと続いていた微笑はそこにはなく、少し伏せた眼差しに、風の止まった森を思わせるような静けさがあった。千年の時を経た仏像のような、厳かな美しさだった。
     手提げ袋が膝の少し上、ずれ落ちる心配がない位置まで上がると、女の子はまた窓の方に向き直った。再び笑顔を浮かべて、外の景色を見ている。まぶしそうに目を細めながら、ずっと、笑顔を浮かべている。窓の外ではまだ新しい緑が、家並みの間で光を返している。
     そのまましばらく走るとやがて、家々の屋根の向こうに、青い海が見えた。

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