2月20日発行、松尾真由美さんの「花章-ディベルティメント」(思潮社)。
とても好きな詩集で、携えて歩くことが多かったので、帯が少し擦れてしまった。特に好きなところにつけた付箋も、外すと後で困ってしまうから、そのままで写真を撮りました。新しい時に、写真を撮っておけば良かった。
松尾さんの詩には私はいつも濃厚な官能性を感じるのだけれど、一方で諧謔もあったり、一筋縄ではいかない。今回の詩集は、官能性と同時に「死」を、そして、生から物(無機物)へと向かう動きとを感じた。
後は散っていくだけの...
花弁なのだから
蛇のめまいのよう
ここにいて
石になる
(「描ききれない溺者の譜」)
とても好きな詩集で、携えて歩くことが多かったので、帯が少し擦れてしまった。特に好きなところにつけた付箋も、外すと後で困ってしまうから、そのままで写真を撮りました。新しい時に、写真を撮っておけば良かった。
松尾さんの詩には私はいつも濃厚な官能性を感じるのだけれど、一方で諧謔もあったり、一筋縄ではいかない。今回の詩集は、官能性と同時に「死」を、そして、生から物(無機物)へと向かう動きとを感じた。
後は散っていくだけの...
花弁なのだから
蛇のめまいのよう
ここにいて
石になる
(「描ききれない溺者の譜」)
花弁の中に死が潜んでいて、しかし死ぬだけではなく、「石になる」、この不思議な行程。
耳を澄ませば
聞こえない内部の灰
(「不分明な声の熱度」)
灰が死の隠喩もしくは換喩としてでだけでなく、灰という、生命を持たない物体としても立ち現れてくる。
風が吹いて
水はながれて
漂流する小舟の形で
来歴を消していく
(「わずかに剥がれる逸話のように」)
来歴を消す、生命を持つ者としての、それまで持った時間を消す。その時やはり存在は無機物的になるのではないだろうか。
無為の糧
零となる日を
差しだすことの
それは晴れやかな
異端の白い芯である
(「葉群れのかすかな晶度へと」)
無為、零。時間を遡行して、いなかったところに戻っていくような感覚がここにある。
言葉もまた、松尾さんの詩の中では、貨幣のように、意味を乗せて流通する存在であることをやめて、音として、作品内で響き合う楽器として、闇の中でじっと目を見開く存在になるようだ。「ディヴェルティメント」という副題が示唆するように、室内楽を思わせるその響きは、音楽作品の構造のような造形性から、紙という平面から立ち上がる造形芸術のようにも感じられる。
言葉が、記号としての生を一度死んで、触れることのできる、質感と奥行きを持ったマッス(塊)であるかのように存在し始める。そこに松尾さんの詩の官能性がある。官能とは何よりも、触れるところから始まる感覚だからだ。
耳を澄ませば
聞こえない内部の灰
(「不分明な声の熱度」)
灰が死の隠喩もしくは換喩としてでだけでなく、灰という、生命を持たない物体としても立ち現れてくる。
風が吹いて
水はながれて
漂流する小舟の形で
来歴を消していく
(「わずかに剥がれる逸話のように」)
来歴を消す、生命を持つ者としての、それまで持った時間を消す。その時やはり存在は無機物的になるのではないだろうか。
無為の糧
零となる日を
差しだすことの
それは晴れやかな
異端の白い芯である
(「葉群れのかすかな晶度へと」)
無為、零。時間を遡行して、いなかったところに戻っていくような感覚がここにある。
言葉もまた、松尾さんの詩の中では、貨幣のように、意味を乗せて流通する存在であることをやめて、音として、作品内で響き合う楽器として、闇の中でじっと目を見開く存在になるようだ。「ディヴェルティメント」という副題が示唆するように、室内楽を思わせるその響きは、音楽作品の構造のような造形性から、紙という平面から立ち上がる造形芸術のようにも感じられる。
言葉が、記号としての生を一度死んで、触れることのできる、質感と奥行きを持ったマッス(塊)であるかのように存在し始める。そこに松尾さんの詩の官能性がある。官能とは何よりも、触れるところから始まる感覚だからだ。
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