2018年3月20日火曜日

阿部嘉昭さんの『橋が言う』(ミッドナイト・プレス)


 阿部嘉昭さんの『橋が言う』(ミッドナイト・プレス、10月28日刊)に、静かで深い感銘を受けている。
 
 まず印象に残るのは8行詩という形に由来する造形性、そして全編を貫く、流れるような美しい音楽性だ。
 
 1ページに8行で収められた詩編の一篇一篇は、並んだ活字が正方形に使い形をつくるゆえに、一枚の色紙のようにも見え、そこから詩が、絵のように立ち上ってくるのが感じられる。

 あるいはまた、一行一行が降る雪の軌跡のようで、白い紙の上にしんしんと降る悲しみの奏でる歌が聞こえてくる。そして白い紙は、詩人の、限りなく希薄になった存在そのものでもあるのだろう。

 
 「ほそさ」は、詩集『橋が言う』全編を貫く悲しみでもあろうか。冒頭の「さほひめ」ではタイトルの中に「竿」があり、三行目の「あしもと」の中にも、「葦」がある。空へと伸びてゆく「ほそさ」のイメージが、この詩集全体のプレリュードとなっている。
 
   いろなきはなびらのほそくふきかかるのを
   おわりのまぶたうすくながめていたが
           (みえるのこり)

 
   こころのままみおろすひかりの川も
   ほそくてただすみとおるだけで
           (「峡中の歌」)

 
   加護されたほそながさとなるため
   へびはかたちをといでいったんだろう
           (「加護」)

 
  すこっぷのうごきにつるなどはばたき
  すいしょうあるそこでとうめいがほそる
           (「羽有人」)

 
   しんくろとかんがえがほそくつながる
   ゆきも肺腑へおりてうすぐらかった
          (「雪のイエス」)

 
 ほそさ。そして、透明であること。『橋が言う』の中で、存在は限りなくほそく、そして希薄に、透明になってゆく。
 
   かたちそのものの透けるおくれた濾過が
   とおりすぎたひとすじをもこしだしてゆく
             (「かんがえのふたつ」)

 
   そら「みおろすと手稲の地までもが
   はるのおわりをとうめいにひろがって
             (手稲山麓)

 
   よこたわるなぎさで縊死をとげた
   やがてとうめいになっていった
             (「ジンジャンの朝」)

 
   すこっぷのうごきにつるなどはばたき
   すいしょうあるそこでとうめいがほそる
             (羽有人)

 
 存在が限りなくほそく、透明になってゆく世界。そこには、存在することをやめたいという、詩人の切実な思いがあるように、私には感じられる。
 「釉薬」に書かれている、「釉子という名のむすめはそのようにみやり/この世をうすくする雨へとゆっくりはいった」という不思議な、美しい二行。「この世をうすくする雨」に入る時「むすめ」はその姿を透明にするだろう。そして、彼女は人としての存在をやめるだろう。
  
   とおくとぎれるものがひとではなくなった

 
 生きていることをやめること、存在をほそくし、消して、透明にすること。それはこの詩集全編を貫く希求のように思える。
 
  じぶんをとりだしかんがえるのではなく
  じぶんをけすようにかんがえてゆくと
  けっきょく「。」がすがたとわかる
          (「句点」)

 
  このてもとにも洗馬があればいい
  いきるなやみをけしたいとかんがえた
          (「毛愛」)

 
  しんだらはずかしいので
  できるだけ早く焼いてほしい
          (「空葬」)

 
  たよりなく放心するのにうながされ
  たたずまいからたましいがぬけてゆく
      (「苗穂駅にて」)

 
 だからこの詩集では、生きている人間の視点から、動物の、更に、生命なき「物」の視点への反転が起きる。詩人は他者にではなく動物に、そして物に憑依する。動物や物を対象にした詩で思い出すのはたとえばフランシス・ポンジュだが、ポンジュのように対象を人間の視線から観察して描写するのでもなく、また擬人化するのでもなく、視点はあくまでも物の位置に置かれる。
 
   犬「あるじにつれられてひくくゆくのみで
   ほらいぞんというものならおぼえない
         (「地上」)

 
   くっついてそいとげるひとでなしを
   霜でひやしみちびいているんだ」
         (「橋が言う」)

 
 そして、人間の世界は、人間ではない物の目で、眺められる。そこからある種グロテスクとも言える、人間の体の描写も生まれてくる。
 
   そのかこいのひろがりをも
   ひとがゆきかうのはふしぎだった
         (「讃歌」)

 
   あせとあぶらにからだがよごれて
   どりあんめいてにおいたつので
   けがれはかなむ心中をしたくなる
         (「誘惑」)

 
   からだのうちがわがあらわになる
   そのはずかしさをかくそうと
   すこしだけばらいろなのがてのひらだ
         (「掌紋」)

 
 阿部嘉昭さんと言えば「減喩」の提唱者であり、もしかしたら、先に「減喩」理論があって、今回の詩集はその実践としての実作のように解釈される可能性があると思うが、私はそうではなく、詩人の中に、己の存在を、さながらジャコメッティの彫刻のように限りなく細くし、可能ならば存在そのものを消し去りたいという思いがあって、その思いがこの美しい、8行詩の連作として結実していると思う。そして実作における批評意識を言語化したものとして、「減喩」理論があるのではないだろうか。
 
 存在の「さみしさ」(「ちいさいかがやきが身につたうと/あみだすさみしさもひとがたとなる」)が、雪のようにしんしんと心に降って深く沁みる詩集である。
 
 

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