垣根の、道路に面した側面が大分伸びて、盛り上がってしまっている枝をちょんちょん切っていると、ボン! と、何かが私の胸に当たって、弾んで下に落ちた。上の方の枝を切っている時だったから、大きな枝が落ちて当たったのかとも思ったが、それにしては局所的に重量感があったと不思議に思いながら下を見ると、鮮やかな緑色の昆虫がいた。
頭の先から尻尾の先までが十センチくらいだろうか、殿様バッタくらいの大きさで、背中に、細長い三角の模様が入っている。
キリギリスだ!
胸がときめいた。
キリギリスを見るのは、生まれて初めてだ。
見たことがないのに何故わかったのかと言うと、去年垣根に、全身緑色の、形はコオロギに似た虫が沢山いて、名前を調べた時に、キリギリスの写真を見たからだった。太宰の小説のタイトルにもなっているし、名前はよく聞くのに、実際に目で見たことはない。人間が、暮らしづらくさせているせいなのかな、などと思っていたのだった。
Tに見せると喜びそうだ。捕まえて、箱に入れよう。両手で掬うようにすると、手乗りの鳥みたいにひょいと乗って、パタパタと足を動かして腕をよじ登ってくる。すぐ肩に届いてしまいそうだから、空いている方の手でまた掬うようにすると、ひょいとその手に乗る。乗ってまた、その手に続く腕に登ってくる。
最初から懐いている。まるで飼われるために現れたかのようだ! これはもう飼うしかない。羽をいためたりしないように両手で大事に包み込むようにして、玄関に入る。扉を開け閉めするのに片手を使ったらピョンと跳び出して、下駄箱の前に落ちたが、手のひらを差しだすとヒョイと乗るから、また両手で包む。
ついこの前まで、蝶になる前の青虫が入っていた段ボールが押入の中に、また青虫が来た時のためにとってあるからとりあえず、それに入れる。青虫用だからとても小さい。これじゃあ可哀想だからもう少し大きめの段ボールを用意してあげないとならないけれど、とにかく今はその箱に入れて、そうだ、まずはキュウリをあげよう、
「キュウリがあるんだよ、キュウリ食べる?
美味しいよ~キュウリ。」
キリギリスに言ってから、逃げ出さないように上に、他の段ボールを載せた。
一瞬真っ暗になってしまうからちょっと怖いかも知れないけれど、今はほかに蓋になるものがないから仕方ない。キュウリとラップを持ってくるまでの、わずかな間の辛抱。ちょっと、待っててね。
園芸用の手袋をしていたのを外して急いで手を洗い、冷蔵庫から取り出したキュウリを薄くタッタッと二~三枚切り、段ボールにかぶせる分くらいのラップを引き出してピッと切り離して、段ボールのある部屋に向かう。
蓋にしていた段ボールを外してキリギリスを左手のひらに乗せた、その瞬間。
イタイイタイイタイイタイ、イタイイタイイタイイタイ
思わず悲鳴を、近所中に響き渡るくらいの大声で上げ続けた。
キリギリスが私の人差し指を嚙んで離さない。
指先の、ぷっくり膨らんで一番やわらかいところだ、そこをガッと嚙んで離さない、右手でキリギリスの体を持って引き離そうとするが絶対離さない。
イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ
近所に聞こえたらみっともないけれど止められない、鋭い歯が肉に食い込んで、貫通しそうだ、これは貫通する、そういう痛みだ、今は嚙んでいるから出てないけど放したら血がどっと噴き出す、間違いない、とんでもないことになった、怖かったんだ、狭くて真っ暗なところに閉じこめられて怖かったんだ、最初はあんなに懐いてたのに、自分に怖いことする相手だと思ったから嚙んだ、ああしまった、蓋なんかするんじゃなかった、でももう、どうすれば、離さない、
イタイイタイ
そうだキュウリ、キュウリで気を引けば離すのでは、気が付いて、
「ホラ、キュウリだよ、食べる?キュウリ」
鋭い痛みが指先から全身まで走るのを我慢して、持ってきたキュウリをキリギリスの顔の前に持っていった、すると
「?」
というように、キリギリスは指から歯を離した。作戦成功だ。
駄目駄目、これじゃ飼えない、何かする度にこんな風に嚙まれたら大変なことだ、そうだ去年も、緑色の虫が綺麗だから飼おうとしてやっぱり嚙まれたんだった、雑食だから人間も嚙むんだ、飼うという気が全く失せた私は部屋の窓と網戸を開けて、その部屋はすぐ目の前が垣根だから、
「ほら、もう、戻んな、ハイ」
箱を垣根の方に差し向けると、まだ出なくてもいいかな、みたいな風に、迷っているようだから、
「ほら、もう、嚙むからだめ、ハイ」
もう一度垣根の方に傾けると、今度は決心がついたように、ヒョイと垣根の葉の上に移動した。
*
ほどなくして、Tが二階から降りてきた。睡眠が足りなくて、朝食の後また、寝に行っていたのだ。キリギリスがいたと話すと、
「えーキリギリス。俺見たことない。放さないどいてくれれば良かったのに」
「Tに見せようと思って、段ボールに入れてたんだよ。でもものすごい嚙まれてとんでもなく痛くて、もう飼えないと思って」
「放すことなかったよ。俺見るまでだけでも置いといてくれれば良かったのに。」
「そうだったよねえ。でもあの時はもう考えられなくて」
指には結局、穴なんて開いていなかった。傷ひとつついていなかった。キリギリスが口を離した時、茶色い汁が指先に盛り上がっていたが、それは血ではなくて、キリギリスが出した汁だった。子供の頃、おんぶバッタを捕るとよく、バッタがこういう汁を出した。確か、相手を驚かせて逃げるために出す、と聞いたことがある。小さな段ボールに閉じこめられて、怖かったんだろう。最初は懐いていたのに、可哀想なことをした。
それにしてもなんであんなに痛かったんだろう。傷一つついていないのが不思議で仕方ないのだった。触ると、まだ刺激は感じる。
「いるかな、まだその辺に」
「いるよいるよ、ついさっきだもん放したの」
「見てこようかな」
Tが外に出るから、私も出ていく。
「どの辺?」
「この辺だよ」
目を凝らして見ても、見つからない。垣根と同じような色をしているから難しいんだろう。
「いないなあ」
残念そうに呟きながら、Tが垣根の幹を揺らす、すると
ばさばさばさっ
「音した」
「蝉みたいだな」
「蝉が木の中にはまり込んで出ようとしてる時と同じ音」
昆虫の固い羽が、高速度で震動して、葉に当たる音だ。やっぱりこの辺にいる。
もう一度、Tが幹を揺らす。
ばさばさばさっ。
また、羽の音がする。でも、
「いないね」
「うーん」
姿は、見えない。
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