2018年7月29日日曜日

川トンボを奈良県桜井市で見た話

昨年9月の出来事です。

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 聖林寺の十一面観音を拝顔した帰り、山門に続く石段に出ようとしたところで、
「あ、とんぼ。」
 Tが言って、指差す方向を見たのだけれど、
「どこ? わかんない」
「そこ、南天のうしろ。ほら」
 言われた場所を見てもやはりわからない。
「珍しいとんぼだよ、やんまの仲間だと思うけど、うちの方にはいないやつ。ああ、見えなくなっちゃった」
 とんぼがいたという南天の木の後ろには塀があって、塀の向こう側が急な傾斜だから、三輪山から奈良市街までが、一望のもとに見渡せる。右側になだらかな三輪山、中央から左まではパノラマ状に遠く、すり鉢の底に並べたように小さく、ビルや家が見える。
 もう一度風景を眺めて、石段を降りていると、
「こないだね、川とんぼいたようちの庭に」
 とんでもない僥倖に遇ったという風に、背を丸くして、私の方にかがみ込んでTが言う。
「川とんぼ? 川ないのに?」
「血洗川だろう」
「あんなとこから来るの?」
「それくらいは飛ぶよ」
「どんなの?」
「羽も胴も黒くてね。蝶みたいにひらひら飛ぶんだ」
「あ、黒いの? それなら見たよ私も」
「庭で?」
「ううん、白岩神社の下」
「ええっ、ほんと? あんなとこで?」
「すごい珍しいとんぼだって思った。話そうって思って忘れてた」
「川とんぼって、羽が黒いやつだよ。そんで胴体が細いの」
「そうそう、羽黒くて細かった」
「ほんと? ほんとにいたのか川とんぼ白岩神社に? すごい珍しいぞそれ。普通川にしかいないんだからな。ほんとに羽黒かった?」
「うん、黒かった」
「胴体細かった?」
「うん、細かったよ」
 Tが余り興奮するので間違えると悪いなという気がしたけれど、たぶん大丈夫だろうと思ってそのまま話を続ける。
「何でいたんだろうね白岩神社なんかに。」
「うちより遠いからな血洗川から」
 自宅から三分位歩いたところに、血洗川という、物騒な名前の川がある。幅が二メートルもない、ごくごく細い川なのだけれど、両岸が鋭く削られていて、くさび形の深い溝のような川だ。たぶんそこに棲息しているとんぼがふらふらと遠出して、うちの庭に来たり、更に足を伸ばして----とんぼは歩いて移動するのではないからこの表現は適当ではないかもしれないが----、白岩神社で羽を休めたりしたのだろう。神社の下の、草むらの雑草の葉先に、そのとんぼは留まっていたのだった。羽の輪郭と、中に走る網の目状の線は黒く、それをオブラートのような、淡い灰色の薄い膜が覆っていて、繊細な羽だった。胴体も撚った糸のような細さで、華奢な姿が美しく、後で話そうと思っていて、すっかり忘れていた。
 山門をくぐり、石段を降りて坂道をくだってゆく。かろうじて舗装はされているものの、凹凸のある細い道で、両側は畑である。畑と道の境に、黄花コスモスが咲いている。聖林寺に毎年来るようになってもう八年になるが、来るたびに必ずこの花を見る。秋のこの時期に、来るからだろう。
 Tがくも膜下出血で倒れて、助かってから、もう、八年になるのだった。救急診察室に私だけ呼ばれて、三十パーセントの人が倒れて二十四時間以内に亡くなる、今夜は携帯の電源を切らずに、いつでも出られるようにしておいてください、と言われたのに、助かった。後遺症も出なかった。
 退院してしばらく経って、体力が回復してきた頃、聖林寺に行きたい、とTが言った。俺、大学三年生の時に、行ったんだ聖林寺。和辻哲郎の本にね、聖林寺の十一面観音が素晴らしいって書いてあって、見てみようと思って行ったんだ。
 大学三年で? 渋いねえ。
 何にも知らないからさ、自分に何にもないから、いいものはなるべく見ようって思って行ったんだな。
 一人で?
 うん、一人で。それで、ずーっと、座って見てたんだ、十一面観音。途中で誰も来なくてね。ずーっと一人で見てたんだ。
 退院してまだ数ヶ月しか経っていなくて一人旅は心配だったから、私も一緒に行くことになった。JRの桜井駅を降りて、二時間に一本しか来ないバスに乗り、街中を過ぎて、山の奥に入っていくと川のほとりにバス停があって、そこで降りた。小さな橋を渡って、田んぼの間の坂を上ってゆく。小さな盆地のような地形になっていて、すぐ近くで、山が囲んでいる。威圧感のない、稜線のなだらかな山である。くねくねと折れ曲がる細い道をさらに上って山門をくぐり、拝観料を払って境内に入ると、本尊のある部屋の脇から、山肌の上に階段がある。階段の両脇の壁は腰までの高さで、庭、と言うよりも、草木の生えた山肌に、宙吊りになったような階段である。右側には露出した土や岩、草や木が、手で触れられるくらい近くにあり、左側は視界が開けて遠く、とても小さく、奈良市街が見渡せる。
 階段を上り切る直前の壁に絵馬が沢山かかっていて、願い事の文字が目に入る。その上に、重い鉄の扉があって、開くと、ガラスの向こうに、見上げる高さで、十一面観音の立像があった。
 十畳ほどだろうか、観音像一体を配置するためだけの、小さな部屋なのだった。歩いている間は暑くて、汗だくになっていたが、部屋の中はひんやりしている。光を入れないために、入ったら扉を閉めるようにと書いた紙が扉の内側に貼ってあり、閉めると、薄暗い、しんとした空間であった。
 手を合わせて拝んで、しばらくの間、何も話さずにただ眺めていると、
 あそこで見てたんだよね、俺。
 部屋の隅を指して、Tが言う。
 あそこに座って、ずーっと見てたんだ。
 そんなに長くいたの?
 うん、何時間もいたと思うよ。
 また、しばらく、話さずに二人で眺めていて、少し経ってから、
 俺、ここの観音様が助けてくれたような気がするんだ。
 と、Tが言った。
 あの時、ずーっとここにいたのを覚えていてくれて、助けてくれたような気がするんだ。
  その後は、どちらからともなく、夏になると、桜井に行く、と、思うようになった。とても自然に、習慣になった。
 黄花コスモスの縁取る道を下ると、両側が田んぼになる。実り始めた稲が軽く頭を垂れて、田んぼ全体が黄色みの強い黄緑色だ。
「あ、とんぼ。」
 橋を渡ろうとしたところで、川の流れの中、転々と岩のあるところに、とんぼが数匹、ふわりふわりとやわらかい飛び方で群れている。
「さっきいたの、これ?」
「違う、これは川とんぼ。」
「うちの庭にいたってやつ?」
「そう、これだよ、川とんぼ。ちょっと、蝶みたいな飛び方するんだよね。留まる時に、羽閉じるの。蝶みたいでしょ? とんぼって、棒の先とか留まるけど、羽広げたままでしょ? でも閉じるんだよね、川とんぼは。」
 少し大きめの岩の周りを、数匹のとんぼはふわり、ふわり、と飛んでいて、時折岩に留まる。羽も、胴体も黒い。
 自宅近くの神社で私が見たのとは、ちょっと違う。私が見た黒いとんぼより、これは二回りくらい大きい。羽の色も、黒が遙かに濃い。さっき、神社で川とんぼを見た、と言ってしまったが、たぶん間違いだ、と思ったが、まずはカメラを取り出した。バスの時間が迫っているから、話していると写真を取り損なってしまいそうだった。シャッターを切る。とんぼはすぐ近くに見えるのに、写真に撮ると小さな点のようになってしまう。ズームにすると、画面がとんぼからずれてしまった。広い範囲が写るようにレバーを戻して、液晶画面を眺めながら、とんぼが画面から外れないように、少しずつズームにする。岩ととんぼが中央に来たところでシャッター、確認するとぼやけているから、再びシャッター、とんぼが岩から離れる、少し待って、また岩に留まるからもう一度シャッター、確認しないで次々シャッターを押すと、バスが来た。川の流れに沿った曲線の道を、高い方からゆっくりと近づいてきた。

 桜井の駅でバスを降りると、すぐ目の前に、韓国料理屋の看板が出ていた。参鶏湯や石窯ビビンバなど、料理の写真が載っている。夜は午後五時開店。ちょうど開いたところだ。お腹も空いていたし、迷わず入る。客はまだ誰もいない。真っ直ぐ進んで奥の席に座り、 ナムル、トッポギ、チヂミの他に、マッコリを二人で一杯頼む。くも膜下で倒れてから、Tはお酒をほとんど飲まないようにしているのだった。
 倒れる前は、うわばみみたいに飲む人だった。一人でワイン三本空けるのは止めた方がいいよ、と注意したことが何度もある。二本空けるのは当たり前だった。
 料理が運ばれてくるのを待ちながら、写真を見る。川とんぼを撮った一枚目には、水面だけが、ぼやけて写っている。二枚目からは、思ったより遙かに鮮明に川とんぼが写っていた。揺れる水面、岩、黒いとんぼ。グレーの濃淡だけだけれど、水面には光沢感があり、岩やとんぼの形が水の流れのゆるやかな濃淡に溶け込んでいて、抽象画のように見える。
「ねえ、私が神社で見たのって、このとんぼじゃなかったかも。羽が、もっと透明だった」
 写真を眺めながら、Tに言った。
「そんで、胴体ももっと細かった」
「え、どのくらい」
「これくらい」
 ごくごく細い胴体を、親指と人差し指でなぞるように宙に描く。
「大きさはどのくらいだった」
「これくらい」
 親指と人差し指の間を、五センチくらい空けて見せる。 
「なんだ、それ、糸とんぼだよ。一番よくいるやつだよ。川とんぼだって言うから珍しいと思って驚いたんだよ。糸とんぼだったらどこにでもいるよ」
 呆れたような声でTが言う。がっかりしたらしい。
「私はこないだ初めて見た」
「でもいるんだよ。羽、透明だったろ?」
「うん、羽に葉脈みたいのあるでしょ? あれは黒いんだけど、葉脈みたいなとこにかぶさってる薄いセロハンみたいなの、あれは透明だった」
「なんだあ。それ、正真正銘の糸とんぼだよ。あれは羽、黒いとは言わないよ透明だよ」
「でもこないだ買ったファイルのね、表紙のプラスチックに細い線が入ってて、その線だけが黒いの、間は透明なの、それブラックって書いてあったからさ」
 ナムルが運ばれてきて、皿を置いた店の人が、
「降って来ちゃいましたね」
 と言うので、カメラから顔を上げると、入り口のガラス扉の向こうがざあざあ降りで、白く見えるくらいだった。棒のような雨が殴りつけるように降って地面に当たり、跳ね返った雨滴が下から上へと、しぶきを上げている。
「ここ入ってて良かったな」
「入る前に降らなくて良かったね」
「傘、お持ちですか?」
「持ってます持ってます。有り難うございます」
「降る、って言ってた? 天気予報」
 携帯で奈良の予報を見ると、今日は一日中晴れになっている。
「当たってないじゃんね全然」
「夕立だな」
「上がるかな、ここ出るまでに」
「ここまでひどいと、駅行くだけでも大変だな」
「傘さしても濡れちゃうよね」
「待つんだな上がるまで」
「小降りになるといいね、やまなくても」
 扉のガラスの向こうは、滝のように真っ白だ。
 川とんぼ、どうしているだろう。
 バス停のそばの川の、岩の脇の草むらで、しんと雨宿りしているとんぼたちの、静かな羽の動きを思った。

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